言葉とその意味について

私の考えごと(note用)

ぱしゃっ、と写真を撮る。

 

その時撮った写真には、「その人の思い出の景色」や

「楽しかった出来事」が映し出されている。

 

「写真である」という事は、「現実とは違う」という事で、

現実の中の移ろいゆく出来事のほんの一部が、移ろわずに写真という

固定されたフレームの中に収まっている。

 

つまり、思い出や出来事の一部が、固定されたまま写真の中には保存されている。

 

また、日記をつけるために、ぽちぽちとキーボードを打つ。

 

そうする事で、日頃感じた事や思った事、

考えた事をパソコン上に保存する事が出来る。

 

私は忘れっぽいので、比較的、思い出としての「写真」や

記憶としての「日記」を多用するのだけれど、その事を活用していて

ふと思った事がある。

 

例えば、クオリアという言葉が指し示すように、

「空の青さ」は、人によって感覚的に全く異なる可能性がある。

 

つまり、「青さ」として表現されているものの中身、

それは人それぞれである可能性がある。

 

しかし、「空の青さ」は「空の青さ」という『言葉』で保存がされている。

 

その事によって、「空の青さ」がどのようなものであるのか、

多くの人が共有する事が出来る。

 

この時、見たり感じたりしている景色や感覚と、

それを保存するような言葉、その関わりについて考えると、

多くの人にとって伝わるのは、おそらく「保存されたものの側」だろう

と思う。

 

つまり、伝える事が出来るのは、私の感覚ではなく、

保存された言葉や画像である。

 

という事は、「私にとって」、こうであるだろうとの感覚は、

言葉や画像として保存する事で、他の人に完全に伝えきれる訳ではない。

 

例えば、私とあなたで、

同じものを同じように見ているとする。

 

この時、見方や感じ方が人それぞれであるように、

見えている景色や感じている世界が異なる可能性は

どれくらいあるのだろうか?

 

私にとってこうであるという感覚や世界と、

あなたにとって、こうであるという感覚や世界の間には

どれだけの距離があるのだろうか?

 

もしかすると、私とあなたの間には、触れる事が出来ないくらい

大きな隔たりがあるのかもしれない…。

 

多くの人が見ている景色や世界と妙に異なるような世界を

生きてきて、近頃私が、特に考える事である。

 

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