平方剰余相互法則という定理がある。
定理の成り立ちを見てみると、もちろんガウスをはじめとして、
ルジャンドルやフェルマー、オイラーなど様々な数学者が
関わっていた事が分かる。
この時、「ある定理が証明される」とは何を意味しているのだろうか?
もし、多くの人が携わり、関わり、アタックした事で
その定理が完成したとするならば、そこには大きな山があるという事が
あらかじめ分かっている、つまり、ある程度数学上の流れ(問題意識)というものが
定まっているとみなす事も出来るのかもしれない。
つまり、関わっている人達の外側に、大きな山があって、
その山を懸命に登ろうとしている、それが証明に関するイメージ
だろうと思う。
一方で、大きな流れ(問題意識)とは別の、全く不可思議な、
奇妙な定理の成り立ちを示すというケースも存在している。
ラマヌジャンという数学者に特にその兆候が見られ、
多く、不思議な観念のもと、あらかじめ定理が自分自身の見立ての内に
存在している事が理解され、その定理を自分自身の外側へ引っ張り出す事で、
次々と新しい定理を生み出す事が出来たらしい。
この場合、ある山を登って定理を作っているという感覚とは別で、
自分自身の心の内を永遠と探っているというような、そんな感覚だろう
と思う。
つまり、自分自身の精神活動の内側に定理の所在が
あらかじめ定まっている、その定理を自身の精神の外側へ導き出す事で
定理そのものを生成しているイメージだろうと思う。
これも、「定理の成り立ち」に関するイメージの一つだろうと思う。
私が証明に関してどう思っているかというと、
直観的、観念的に理解される数学上の問いも存在している
のではないかとの印象を持っている。
つまり、「勘で、ここに何かが埋まっています」との感覚に近い
のだけれど、もしかすると、それも数学を行う上で大切な感覚の一つ
のような気がしている。
数学に関する感覚、つまり、「数覚」とは人により千差万別で、
どこにどのような定理が存在しているか、それを証明したり発見したりする
という事は、その人の固有の能力の一つなのかもしれないと感じる事
もある。
つまり、人により感覚が違うからこそ、これだけの数学の発展が
あったのだろうと、そんなふうに感じる事もある。
自分自身の感覚を大切にしながら定理の証明に取り組む、
それはきっと、証明を行う上でとても大切な事であるのかも
しれない。

