「本質的な時間」と「見かけの時間」

「「本質的な時間」と「見かけの時間」」挿入画像 考察日誌(note用)

時間とは何だろうか?

 

例えば、会社へ出かける時に電車へ乗る。

その時に生じる時間と、深夜、本を読みながらリラックスする時の時間を比べる。

この時に生じる時間の間隔は、おそらく本質的に変わることはない。

 

この時間の間隔は、光の速さに近しい宇宙船に乗っている

宇宙飛行士にとっても変わらない。

 

その事をどこで判断しているか?

もちろん、腕につけた腕時計の刻む時間の間隔によってである。

 

では、光の速さで動く物体に生じる時間間隔についてはどうなのだろう?

 

静止している物体自身に生じる時間の間隔、

電車等、動いている物体自身に生じる時間の間隔、

どれも時間の間隔自体がずれる事はない。

 

この時、静止している物体は、何を持って静止していると言え、

動いている物体は何を持って動いていると言えるのだろうか?

 

そして、自分自身が別の視点から見た時に

光の速さで動いていないという事をどう言えるだろうか?

 

という事は、光の速さで動いている物体に対しても、

光の速さで動く物体自身に生じる時間の間隔というものが

一様であり続けるという仮定が成り立つのではないか?

 

もし、この仮定が成り立った時、自分自身にとって生じる時間の間隔を

「本質的な時間」と呼ぶ事にしよう。

 

では、この「本質的な時間」は何によってどう定義できるだろうか?

 

逆に、相対性理論によって示されている時間の間隔について考える。

 

ある物体における相対論的な時間の間隔とは

その物体を認識した時、その物体と自分自身の刻む時間との

比較から生じる時間の間隔である。

 

つまり、自身の時間の間隔と自分自身から見た時に比べられる

他の物体に生じる時間との比較の結果、生まれる時間の間隔である。

 

この時、固有の物体間において生じる時間間隔の比較とは

何を意味するだろうか?

 

また、相対論的な時間間隔の比較ができるという事は、

どのような物体間の関係においても、

時間感覚の比較ができることを意味しないだろうか?

 

もし、出来るとするならば、この物体間における

比較の結果生じる時間の間隔を「見かけの時間」と呼ぶ事にしよう。

 

では、この「見かけの時間」は何によってどう定義できるだろうか?

 

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