この世界の形、成り立ちというものは、どういうものなのだろうか?
ある一つの形、絶対的な形、というものが存在しているのだろうか、
プラトン的な。
こうは考えられないだろうか?
プラトンだから、考えられる世界が表現された現実に住んでいる、と。
また、よくこんな事を思う。
学習とか、教育とか、勉強とか、生活とか…。
その様な事をして、今まで生きてはきたものの、
形として出来上がったものを見た時、「うーん…これか」と。
例えば、円を描く。
「その円は完璧な円ですか?」
「いや、完璧な円ではないです」
「完璧な円ではないとするなら、完璧な円とはどこに存在するのですか?」
「それは頭の中です」
との議論を耳にするが、
「頭の中の円って完璧か?」とも思う。
イメージとして浮かべる事はできるけれど、
取り出せないし、比べようも無いからである。
ただ、「その円はどこから来たのか?」については分かる。
現実に存在する「円っぽいもの」からである。
その、黒板とかに書かれている円も含めて。
例えば、りんごを一つ手に取ってみる。
円を、頭の中の円も含めて、2次元の表現物だとする。
りんごは立体である。故に、まず3次元である。
その他、匂い、色、食感を含めると6次元になる。
その時
「このりんごは完璧なりんごですか?」
「いや、完璧なりんごではないです」
「完璧なりんごではないとするなら、
完璧なりんごとはどこに存在するのですか?」
「それは頭の中です」
とするなら、どうだろう?
私自身、複雑すぎて完璧なりんごがイメージ出来ないのである。
ただ、今こうしている中にも、
おそらく、りんごを品種改良して
より良いものにしようとしている方が
たくさんいらっしゃるように思う。
という事を考えていたら、
「それは目指すものなのだろうか?」
「それは、完璧なりんごのイメージを目指すものなのだろうか?」
という事は、「完璧なりんごが分かる人がいるのか?」
それとも「なんとなく、りんごとはこういうものだろうという事なのか?」
という事が疑問に浮かんだ。
私自身
「完璧な円とか、完璧な三角形っぽい世界で生きてください」
と言われたら、
「わ、分かった、今はそうする。
ただ、それが現実の全てを表現したものではない気がするのだけれど」
と答えるだろう。
では、現実とは、どこに存在しているのだろうか?
観念というか考えの側から、現実とは何かについて考えてみた訳だが、
では、本当の現実とはどこにあるのか?
そんな事を思いながら、街中を散歩してみる。
そうしてみると、車の走る音が聞こえたり、昔遊んだ公園に出会ったりする。
ふと昔、「カブトエビを、田んぼに取りに行ったなぁ」なんて事が思い出され、
友人と遊んだ際「蝶や、アリ、ダンゴムシなどを捕まえたりしていたなぁ」
なんて記憶がよみがえってくる。
ただ、頭で考えるより先に、現実があったのである。
頭で考えたから、現実が出現したのではないのである。
ただ、歳を取るに従って、「ああしよう。こうしよう」
との意識が生まれる。そして「ああすれば、欲しいものが手に入る」
「こうすれば、より良い生活が出来る」と考えだす訳である。
という事は、意識が身体を通じなければ生み出されないのと同様に、
身体のみがあれば、現実というものが作れる訳ではない。
「身体と意識の二重性」において
初めて、現実が立ち上がるという事ではないのか?
また、身体と意識の境界面に、現実が存在する。
つまり、人としての存在が立ち上がると考えると、どうだろう?
つまり、身体の側と意識の側の境界面において、人とは存在している
と考えるのである。
そのような見方において、意識の側のみを見れば、
それをゴーストと呼ぶ人もいるだろうし、
身体の側のみを見れば、プログラムに沿って動く
機械のようなものとみなす事も出来るだろう。
今現実が、観念というか考えの方に
強く引っ張られている感覚を覚えるのだが、
もし現実というものが、形(身体)と考え(意識)の両方を
必要とするのであれば、もう少し身体の側を大切にしたいなぁ
とも思うのである。