Cとは何でしょうか?
物理学の世界では、光の速さの事です。
では、このCというのはどういうものなのでしょうか?
現実の中で、例えば、
「Cとは現実における限界速度、つまり、C以上の速度では物質は進めない」とか
「Cに対して、別の速度のCの値が存在する(Cには種類がある)のではないか?」とか
様々な事が言われています。
そのような、様々な仮定を眺めているうちにふと、こう思ったのです。
「Cの値は、本当に、誰から見てもどこから見ても、
Cの値そのままなんじゃないか?」と。
もとい、「Cの値は、本当に、誰から見てもどこから見ても、
Cの値そのままに見えるのではないか?」と。
もっというと、「Cの値は、本当に、誰から見てもどこから見ても、
Cの値そのままに見えるように、現実が調整されているのではないか」と。
つまり、現在の物理学の範囲で言われている
「Cの値そのもので飛ぶのは無理(質量があるから)」とか
「ローレンツ変換での値に対して矛盾してしまう」などの
ノイズというか、限界を取り払って考えてみた時
「光の速さCで飛んでいる光の先の光に対しても、CはCのままではあるまいか」と。
つまり、Cとはこの世界に対してあてがわれた、一つの定規というか
世界に対する見方というか。。。
何故、そんな事を思ったのかについては、後で詳しく記します。
この「光速度Cの値に対して現実が調整されている」という仮定は
厳密には、私自身の仮定ではありません。
現物理学における一般的な原理です。
「その原理が、高速度Cで飛ぶ物体から見た先の現実に対しても、
成り立つのではないか?」というより、
「光速度Cで飛ぶ物体から見た先の現実に対しても、
その原理が成り立つと仮定した時に、どのような現実が見えるのか?」
というのが、私自身の仮定になります。
その事を考えるというか、その仮定を眺めていて思った事の一つに
「現実における同時とは何か?」という事があります。
例えば、テストなどでこんな問題を解いた事はないでしょうか?
「高さ10mの場所からりんごを一つ落とす。
10m先の地面にりんごがぶつかるのは、何秒後か?」
という問題です(現実にはもうちょっと細かい条件設定が書かれているはず)。
この問題では、だいたいりんごが地面にぶつかるのは、
りんごをぽとりと落とした「1.4秒後あたり」になるのですが、
今問題とするのは、「何秒後か正確に求めよ」とかいう話ではなく、
「このりんごが落ちる瞬間を誰がどう測っているのか?」です。
言い換えると、「何故、りんごが床に落ちる瞬間が1.4秒後あたりと
正確に言えるのか?」です。
まず、必要なものが、時計(自分の腕時計とか置き時計とか何でも良い)です。
何故、時計が必要かと言えば、何秒後にりんごが落ちたのかの秒数を測りたいからです。
あと、りんごを地面より10m上から落したい。
つまり、10mを測りたい訳です。
その10mを測るための定規かメジャーか、巻き尺が必要です。
今ここでは、巻き尺を選択します。
皆さん、手に「時計」と「巻き尺」を持たれたでしょうか?
今、りんごを10m上から落とした訳ですが、
巻き尺で物体間の距離を測る時には、自分自身が飛ぶのを良しとします。
何故なら、その方が簡単に物体間の距離を測れるので。
次に、動いている物体の上で10mを測る。
そして、りんごを落とすとどうでしょう?
「この時、りんごは何秒後に床に落ちるのか」という問いです。
この問いも、前回の問いと同じく「1.4秒後あたり」となります。
また、動いている物体は、電車だったら地面、
船だったら海という具合に何かに対して動いているはずです。
その時、視点を変える、つまり「地面や海などの別の場所から見た時
電車やバス、船などの上10mから落としたりんごが、その場所(地面や海)から見て
何秒後に床に落ちる(ように見える)か」という問いを今度は考えてみます。
現実的な視点として、電車やバスの高さ10mというのはあり得ない
と思うのですが、何らかしらの「動いている物体上」であれば良い訳です。
ですので、その部分は空想でカバーしていただけたらと思います。
この問いも答えは「1.4秒後あたり」となります。
常識的に考えると、そうなる「だろう」という事は分かると思います。
今行った事をまとめると、
「地面に対して、10m上からりんごを落とす。そして、それを測る」
「動いている物体の上で、10m上からりんごを落とす。そして、それを測る」
「視点を変えて外側から、10m上からりんごを落とすのを眺める。
そして、それを測る」の3種類の操作です。
この3種類の操作のうち全てで、りんごは「1.4秒後あたり」に
地面または床に落ちる、となるのです。
次に考えたい事も、同じ事です。
ただし、こういう仮定を組み込むのです。
「動いている物体の速度を光速に近しくしてみる」という仮定です。
「この仮定をどう組み込むか?」についてですが、
現実問題として、地球上で光速に近しい速さで動く物体を想定しにくいので、
光速に近しい速さで動く宇宙船を用意します。
どのような物体が、何に対してどう動いているかという事を
議論するのはとても大切だと思うのですが、
今は、シンプルに、地球というより地面が静止していて、
その上を光速に近しい速度の宇宙船が飛んでいる、
という状態を想像してみましょう。
ただし、その宇宙船には重力を制御できる装置があり、
地上と同じ重力の元での操縦ができるものとします。
もちろん、りんごの10m落下実験が可能な実験室がついている宇宙船です。
では、行ってみます。
まず、地球の地面の上で10mを測り、その位置からりんごを落とす。
そして、何秒後にりんごが地面に落ちるのかを測る。
次に、宇宙船の中で10mを測り、その位置からりんごを落とす。
そして、何秒後にりんごが宇宙船の床に落ちるのかを測る。
最後に、宇宙船の中で10mを測り、その位置からりんごを落とすのを
地球の地面から眺める。そして床に落ちる瞬間を測る。
直に眺めることなんてできないので、同じ瞬間が測れるモニターで監視します。
結論から書くのですが、
最後の実験からのみ、りんごが何秒後あたりに落ちるかの
「何秒後あたり」という数値が異なる結果が生じてしまうのです。
具体的には、宇宙船が光速の90%で飛ぶと仮定すると
地球から見た宇宙船内の時間が約2.3倍に引き延ばされます。
この地球から見た宇宙船内の時間は、宇宙船の中から見た景色には
影響を与えないのですが、地球から見た宇宙船内の景色に影響を与えます。
地球から見た宇宙船内の景色は、少しスローモーションに見えるのです。
その結果、りんごが落ちる時間が地球と宇宙船内を比べると、
宇宙船内の方がゆっくりと流れているように見える。
具体的には、地球で約3.2秒後に宇宙船内のりんごが
床に落ちる瞬間を観測する、ということになります。
何が言いたいかというと、視点を変えると、
「何秒後あたり」という数値が異なってしまう、
つまり、りんごを同じ瞬間に同時に落とし始めたとしても、
りんごが地面または床に落ちる瞬間が同時でなくなってしまうのです。
今、時計でりんごを落とした箇所を測った時刻が
一致しないという事は考えたのですが、では今度は、
「りんごが本当に同じ瞬間に同時に落とせるのか?」
という考察です。
このような声かけを想定します。
「今からりんごを落とします。いっせいのせ、という声かけで
りんごを落としてください。では始めます。いっせいのせ!」
との声かけです。
この声かけをした時に、同時にりんごを落とせるのか、です。
言い換えると、それぞれの人が、個々別々の作業を行っていた時、
「同じ瞬間」という概念が本当に生じるのか、という問いです。
生じるとするならば、それはどこにどのように生じるのか、です。
例えば、このように考える。
もし、個々の空間、別々の時間が生じていていても、
時計と巻き尺を持っていることには変わりがない訳です。
という事は、声かけの代わりに
「7時30分にりんごを落としてください」という、
指示出しをするとどうでしょう。
その7時30分に見ている景色や時間感覚が違っていても
おそらくその時刻にりんごは地面に落とせる。
ただし、「ある人にとっての7時30分が、別の人の7時30分であるかどうか」
という事までは、この考察からは分からない。
また、時間そのものは「流れる」ということに注目します。
この時、ある別の空間内での時間がスローになっていたとしても、
加速していたとしても、単位時間あたりの出来事を記録して、
それを重ね合わせることができれば、同じ瞬間が成り立つ事は言えそうです。
では、「ブラックホールはどうなの?(何故かと言えば、
ブラックホールの入り口で時間は止まっているように見える)」
と言われれば、完全な時間の重ね合わせは難しく感じます。

では、同時であるとはどういう事か?
私はこう解釈しています。
ある物体、ある人物を一つのものとみなした時、
その物体、その人物の背後におじゃまさせてもらう。
そして、その物体やその人物の見ている景色を
写真にそっとおさめる。そして、その時の写真を見てみる。
もし仮に、その物体やその人物が存在している
「現実」における変化をたどりたければ、
その物体やその人物の背後から連続的に写真を撮ってみる。
それが同時であるという事の意味だと思うのです。
「それでは、長さだったり幅だったりをどう測れるのか?測れないではないか」
と思うのであれば、世界に対してこうお願いするのです。「時よ、止まれ」と。
そうすると、物理学的対象である物体に対しては
長さや幅が測れるようになる。
また、この時にも、自分自身が見る事によって生じる現実
における変化を辿りたければ、自分自身が所有している時計が
刻む時間を連続的に固定させた時に生じる現実における変化を
辿れば良いと思うのです。
ただし、自分自身が巻き尺を持って、静止した世界の中を
動き回ることになりますが…。
ここでは、「ある瞬間が同じである時、そこには一枚の写真(静止画)が成立する」
という概念を仮定しています。
そうでないと、同じ瞬間という意味の「t=a(今の時間はa秒です)」
という概念が成立しないと思うからです。
ただ、その見方が正しいかどうかについては
保証ができないのですが…。
何故かというと、写真をとったら
その写真を写真の外側から眺めなくてはいけない。
また、世界を静止させても、
自分自身は世界の内側を動き回らなくてはいけない。
どちらにしろ、静止させた空間の内外に
動き回る物体を仮定しているわけですから。
ただ、現行での物理学において
そこまでの問題を問われないような気はしています。
この時に、注意が必要になると思うのですが、
「自分自身が世界を止めてその世界を眺める」のと
「相手が世界を止めてその世界を眺める」のでは
少しだけ世界が異なってしまうのです。
それが、「光速度Cにおいて現実が調整されている」
という事の意味です。
話を続けます。
問題は「りんごが落ちる瞬間を誰がどう測っているか?」という問いです。
ここまでの考察で、おそらくお気づきだと思うのですが、私の解釈では、
私自身が私自身の尺度でりんごの落ちる瞬間を測っていると言えないでしょうか?
言い換えると、自分自身から見た世界においてのみ、同時という概念が成立する。
つまり、自分自身にしか同時という概念は存在しない。
難しいでしょうか。。。
こう考えると分かりやすいかもしれません。
自分から見た景色、風景を「時も含めて」固定させる。
固定させる方法は何でも良いのです。
写真に撮る、文章にする、頭の中にイメージする、
ヴァーチャルな空間上に保存する、時を止める(止められればの話)。。。
つまり、自分から見た視点で、世界を瞬間的に閉じ込めるのです。
その瞬間においてのみ、同時という概念が成立する。。。
もちろん、これは一種の仮定です。
写真機のように瞬間を固定させる装置の延長線上の考え方です。
ただ、この考え方で言うと、
この世界における絶対的な視座があるとするなら、
それは、自分自身が相手(世界)の事を「どう見ているのか」
つまり「測っているか」という一点のみです。
この視点自体は、私特有のものではありません。
しかし、この言い方では十分ではない。
何故なら、相手側から「見た」時に生じる現実というものがあり
(相手も同様の操作ができると想像してみてください。難しいですけど
重要なポイントなので)、その現実が自分自身に作用するからです。
つまり、何をしないといけないかというと
相手の事を想像しないといけない。
相手側には自分自身の時を止めて相手を測ったもの以上の現実がある訳です。
その現実が、おそらく自分自身に作用を及ぼす。
何故なら、相手が持つ現実というものが相手を動かしているからです。
言い換えると、自分が知っているのは相手の全てではない。
時を止めて世界を動き回り、相手自身の事を精密に測ったとしても、
それは自分自身の世界での相手でしかない。
それ以上の世界が相手側から見た世界には含まれている。
故に、時を動かした途端、相手の世界に影響を受ける。また、影響を与える。
つまり、自分自身の世界と相手の世界が、万華鏡のように結びついている。
これが、私が感じる世界の形です。
もう少しお付き合い下さい。
その事を
「私たち側の世界から見た光(重なり合う光)」と
「光の側の世界から見た光(先行する光)」に
還元してみるとどうでしょう。
二つの世界が相互に関連する事によって
互いの世界に影響を及ぼしあう。
つまり、二つの世界は関係している。
どう関係しているか?
それが、光子の飛ぶ過程(プロセス)においてである。
もっというと、その過程(プロセス)に光速度Cが寄与している。
そんな気がするのです。