私自身がどうしても気になってしまう事

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ニュートンという数学者がいる。

そのニュートンの創始した数学体系の一つに、微分積分学がある。

 

その事について書かれている本を読んだのだが、

ニュートンが微分積分学を創始する以前に、

様々な天才たちによる考察や実験がなされていると、

内容に書かれていた。

 

具体的には、16世紀イタリアの科学者であるガリレオ・ガリレイの実験や考察、

17世紀のフランスの数学者、デカルトやフェルマーの座標系の発見、

また、それ以前の研究としては、数学の大家アルキメデスの研究などがあり、

その他、17世紀のケプラー、カヴァリエリ、トリチェリなどの研究があったと

いう。

 

その中で気になった考察の一つに、

カヴァリエリの「線の定義」に関する考察がある。

この考察では、「線とは面の元になるもの」と明確に定義されており、

ニュートンの微分積分学に、最も大きな影響を与えている考察の一つ

のように思う。

 

この事に関して、後になって自分の習った数学と、

少し「くい違った」定義だという事に気づいた。

 

具体的には、「線には幅はない」という事。

従って、線をいくら足し合わせても掛け合わせても、面にはならない。

面も高さのないものであるから、面をいくら足し合わせても掛け合わせても

立体にはならない、という事を小学生の算数の時間に教えて頂いた気がする。

 

ただ、後になって、この定義はおそらく、

『ユークリッドの原論』から取られているであろうという事を知った。

 

では、この定義の違いによって生じる理論の差、

そのものになんの意味があるのか?

 

また、くい違った定義によって作られた理論同士に

矛盾した関係が生じてしまうのではないか?

 

そして、理論とは、どのような定義からも創始する事が出来るものなのだろうか?

そうであるならば、現実の中でうまく機能する理論と機能しない理論があるのか?

 

という事が、私自身とても気になっている事の一つである。

 

ただ、点の定義も線の定義もくい違っていても

理論として形になる、形とする事が出来る人がいるという事は、

理論としての完成度以前に「その人とはどういう人なのだろうか?」

という事を想像する事が、とても重要な気がしている。

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